Чёрт с тобой!

ロシア帰り女子大生の他愛ない日常。

つながる

復学して早一ヶ月が過ぎました。

授業中の居眠りはやっぱり直りませんが、自主休講はなんとか前回の一回だけに留めています。

尤も、休まないのが当たり前、と言われれば、その通り、返す言葉もございません。

が、私にしては頑張っている方。自己評価はサッカリンより甘いです。

 

さて。

一日に大体3コマの授業を受けて、参考文献やテキスト、その他資料を読んだり、色々な授業に真摯に(居眠りの件は置いといて)取り組んで、身をもって実感した当たり前の事実。当然といえば当然だけれど、私にとっては新たな発見。

全ての授業はつながっているということ。

例えばゼミ(イギリス文化専攻です)の授業内容と、ユーラシア研究の授業内容。

例えばアメリカ文化と比較宗教論。

全く毛色の違う分野なのに、どこだか繋がる。

なるほど、あれがこうなってこうして、この視点から見るとこうだけれど、別の視点からだとこうなるのか。

そういうリンクが起こる。

ある講義がある講義の内容について補足して、知識が一層深まる。

それだけではなくて、もう一つ。

色々な視点から物事を見るということは、色々な考えに触れる、ということ。

 

私、自分の意見を持つの、苦手なんです。討論や議論が大の苦手なのです。

誰かを説得させることに興味がない、論破することにも関心がない。

それに労力を割くよりは、持論なんて捨ててしまって、ああそうだね、その通りだね、そういう考え方もあるよね、人それぞれだよね、って言ってしまった方がずっと楽でしょう。

持論をもたなければ、意見がなければ、ノンポリであれば、あらゆる事柄に無関心であれば、誰とも諍いを起こさなくて済むでしょう。

 

そう思ってたんですけど。

そうもいかないんですよね。

 

知識を蓄えるのは簡単で、本を読めばそれは容易に手に入る。

でもその先には行けない、んだと思います。

その先が何を指すのかって、それは全然わからないんですけど。

このままじゃ駄目だなって。意見を持たないでいるのでは駄目だなって。

求められた時、自分の意見に見せかけて、全く本心ではないことを言って、きれいにまとめることは本当に得意。嘘は苦手なんだけど、そういうのなら簡単にできる。

でもそれって、きっと違う、いや絶対に違う。

 

持論で戦わなくちゃ。

きれいな言葉だけでは、その内誰も話を聞いてくれなくなる。

 

「嫌い」という言葉をはっきりと言える人を尊敬する。

だからとりあえず「嫌い」って言葉を最近、頻繁に使うようになった。

なんだか歪んだ一歩目なんだけれど、とりあえず嫌いって言ってみる。

そうすると、「実は嫌いではないのではないか、本当は好きになり得るのではないか」という猜疑心に苛まれる。

「好き」を言うのは簡単なのに、「嫌い」っていう「意見」を言うのがどうしようもなく怖い。

私が恐れているものが何なのかよくわからないけれど、とにかく「意見」を言うのが怖い。

それでも我慢して言ってみる。とにかく言う。すると突込みが入ったりして、しょげて発言を削除したりしてみる。情緒不安定だと笑われる。一進一退。

 

考えることは、嫌いじゃないです。でも言葉にするのは難しい。

考えに穴があれば突っ込まれるし、揚げ足もとられる、議論は避けられない。

それが怖い。口喧嘩みたいで嫌になる。言葉のきつい人はたくさんいる。もういいよ、わかんなくていいよって中断する人もたくさんいる。

それでも私みたいに、言う前から諦めて、ずっと拒み続けている人間よりは遥かに出来た人達なのだろう。

 

意見を持つ。

新しい目標ができた。

ふらふらしない一本の線。

 

昨日の嫌いが今日の好きだったり、明日の憎悪が再来週の好意だったり、十年前の殺意が十年後の感謝だったり。

ふらふら、ぶれる。いつだって心変わりする。

あれ、私、何が好きで、何が嫌いなんだっけ。すぐにそうなる。

自分の好き・嫌いをすぐに忘れてしまうくらいに自分に無関心だ。

たとえば好きな食べ物を訊かれたとして、今日と明日じゃ答えが変わる。

それがよくないんでしょうね。

 

もっと自分に関心を持たないと、持論なんて生まれない。

もっと外に目を向けないと、意見なんて持てない。

もっと色々なものに触れなければ、もっと色々なもの知らなければ。

そして得た知識を色々な角度から見なければ。

 

一つの意見に飲まれるな。

私の個が消えてしまわないように。